コミュニケーションがはじまるとき

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家にこもって、誰にも接触する必要がなければコミュニケーションは必要ない。風呂に入らないのも自由だし、髪の毛ボサボサヒゲが伸び放題でも問題ない。どんな言語を話そうがどんな食事をどんな方法で行なおうが、公序良俗に反する事なく法律に触れなければ、そんなの関係ねえである。

ところが、誰かと会うとなるとそれが一変する。

ネット上で知り合ったとてもきれいな女性があなたに興味があり会いたいと言って来た。普段なら絶対に断るのだが、その人はなんと元AKDのメンバー。あなたのツイッターのつぶやきに興味を持っていた彼女がついにアプローチしてきた。

さあどうする。どうするもこうするもない。会う。

このままでは絶対に行けない。まず、風呂に入ろうと。

この風呂に入ろうという心理はどこから働いているのでしょうか。こんな汚いカッコで会うわけにはいかない。好きな人に嫌われたくないからというのが一番でしょう。それプラス好きな彼女に臭いにおいを嗅がせては気の毒だ、かわいそうだと思うからでしょう。

相手の事を思う事でコミュニケーションは始まるんです。ひとりで生きていた彼。まったく身の回りを気にしなかった。でも、会おうと決めた瞬間に駄目だときづいた。だから、コミュニケーションは相手を思う事で容易になるんです。ところがこれは意外にすぐ忘れられてしまう。

こういうことが起こってしまう。例えば部下と1対1になる。会社を終わってからの飲み会。ふたりで話したいので飲みに行こうと上司から誘われる。今日は無礼講だ。だから割り勘にしよう。上司部下はなく男同士の話をしよう。このように誘われる部下も多い。

かといってほとんどの場合無礼講にならない。あいも変わらずそこには、上下関係が成立している。上司の話が90%部下の話が10%となる。これはおかしい。例えば上司の90%の話の内容がその部下のためのものだったらすばらしい。だがそうでないケースが多い。上司のはなしを延々聞くのだ。対等ではない。これで割り勘は割に合わない。

これはコミュニケーションではない。前述の家で好きなように生きている人とあまりかわらない。自分の事しか考えていない。対等というならまず50:50を考えよう。そのなかで話をする。

もう1つの例。

あなたの彼女はあなたのおもしろい話をただ、顔を見つめて聞いてるのが最高の幸せと思っているとする。その場合あなたが延々に話をすることが、そのまま彼女の幸せになる。これは見事なコミュニケーションとなる。100:0でも見事に成り立っている。

ところがだ。あなたの話になれてきた彼女は徐々に心境が変わってきた。論理立てて話す面白いと思っていたあなたの話が、だんだん、やたらながい理屈っぽい話のように思えてきた。かわいいと思っていた失敗談も何回も聞いているうちに、成長しないただの、馬鹿じゃないのと思えるようになってきた。

ところがあなたは気づいていない。相手の気持ちになっていないから解らない。徐々にあなたの話を聞かなくなっていた彼女。知らないうちにもう2度と会う事はなかった。

この彼の場合。たまたま上手く言ってただけなんです。話すのが好きな男とそれを聞くのが好きな女。たまたま出会った。上手く言った。彼が相手のことを思うコミュニケーション能力が高い人間なら、彼女の変化に気づいたはずだ。彼にはなかったのだ。

二人が別れない方法は本当に簡単だった。彼が彼女に「なあなあ、今日なにしてたの?」と聞くだけでよかったのだ。変化がないものは存在しない。人は飽きるのだ。もてる男はこのあたりのバランスがすばらしい。

コミュニケーションは相手を思う事からはじまる。これさえ忘れなければコミュニケーションは簡単だ。

わたしは、話し過ぎてないだろうか。