コミュニケーションは歩みより

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誰かとコミュニケーションを取りたいと思うとする。どちらかが、もしくは両方が歩み寄らないと成立しない。

コミュニケーションをとるのに一番有効なのがおそらく言語だろう。言語を使う事でコミュニケーションがとてもとりやすくなる(当然万能ではない)。フランス人の友達がいる。彼とコミュニケーションを取るときは英語をつかう。彼は当然母語であるフランス語を使ったほうがとりやすい。私は日本語。

この場合双方が歩み寄らないと難しい。英語を使う事になる。これは双方が歩み寄った例。

アメリカ人が京都に観光に来た。金閣寺に行きたい。バスで行きたいとの事。私に聞いて来た。彼が使える言語は英語のみ。私が英語で教える。私が歩み寄った例だ。私がかたくなにここは日本だから日本語でと言えば、コミュニケーションはとりづらい。

あたりまえだ。そうしなければコミュニケーションがとれない。

これが日本人同士なら急に出来なくなる。歩み寄りが出来なくなるのだ。我々は日本人で母語は日本語。コミュニケーションは言語を中心におこなうので、当然普通にコミュニケーションがとれると思っているのだ。

でも、あなたが使っている日本語と彼が使っている日本語がまったく同じという可能性は低い。

前からとても素敵な女性が歩いて来た。モデル並みのルックス。超長い足を惜しげもなく出している。スカートは超ミニだ。すると24才の同僚が

「あれ、やばくね」といった。すかさず私は「あれはやばいよなあ、パンツ見えるで」という。同僚は「はっ?」という。

最近の若者はやばいを危険とか心配だとか言う意味で使わないのだ。すごいとかいけてるという意味で使うのだ。いけてるというのも彼らが使っているかどうかも定かではないが。

この場合、若い同僚は前から歩いてくる女性を美して仕方ない、まいっちゃう。という意味で使っているのだ。それに対し私はやばいを危険ととったというわけ。まったくコミュニケーションがとれていない。

そういうことだ。同じ日本人言語がおなじだからと安心しているケースがままある。さらに言うとその違いは性格や性別世代、育って来た環境に大きく左右される。まあ違うと思って間違いないだろう。

本当にコミュニケーションを取ろうと思うなら相手に徹底的に歩み寄る必要があるという事だ。私は営業マン時代それは、こびへつらうくらい、クライアントさんに歩み寄った。向こうはほとんど歩み寄ってこない。必要がないからだ。

歩み寄りを繰り返す事でデーターがどんどん蓄積される。データーベースにどんどんたまってくる。そうなってくると歩み寄って彼らとコミュニケーションを本格的にとれるようになるまでの時間が短縮される。検索エンジンにワードを入れればいい。

<50代 男性 関西 クラウン>とか<30代 ノーメーク ロハス プリウス>目から入った情報で自分の脳内にあるデータベースから検索をかける。経験を積むとアプローチの方法がわかってくる。

でも、これは随分あとのはなし。それまでにトライアンドエラーを繰り返し、歩みよりまくっている。

その人とコミュニケーションをとりたいなら、徹底的に歩み寄る方法をおすすめする。歩み寄ってくれる人はまれ、と思うとストレスもたまらない。コミュニケーションは本当にむずかしい。