カン

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勘。

カンについての話は何度か書いている。いわゆる第六感。女のカンや刑事のカンそして営業マンのカンなどがそれにあたる。なんとなくあやしい、犯人ではないか、今日はこの商談決まりそうな気がするといった類のモノだが、それは、圧倒的なデーターの蓄積により支えられていると私は思っている。

英語。カンではないのだが同じ分野の話。最近英語を話すとき頭の中で文章を作らない。英語学習の初期段階の人からかなりの上級者まで、英語を話す前に頭の中で文章を組み立ててから話す人が多い。わたしもそうだった。ところが、最近作らない。気がついたら話しているという感じになってきた。

もちろん英語は正確ではないし文法も単語もまちがいまくってるが、頭の中で文章を作ってからってのはなくなった。気づいたら話している感じだ。これが前述のカンと同じだと私は思っている。圧倒的に英語を入れた事によってその構造や単語がデーターとして脳の中に蓄積された。それが意識を介する事なしに使っている状態だと言えよう。

日本語を話す時にいちいち文章を作って話す人はいないだろうし、英語でもgood morning! は口をついて出てくるだろう。それの延長線上にある。ドンドン読んで聞いていけば必ずそのデーターが蓄積され話す回路が出来上がるのだと思う。

同じ意味合いで書くこと。これは日本語でということだが、圧倒的な量を書きまくっていれば、もちろん、そのまえに大量に読んだほうが良いが、そうしていくうちに無意識のレベルでどんどん書いて行けるようになるのではって言う気がしてきた。

たまに、思考が追いつかずキーボードを打っているという感覚に襲われる事がある。もちろん錯覚だが、書いているうちにたくさん書いているうちにそうなってきたのではないかと思っている。

何かをマスターしようとするとき理論ももちろん大切だが、もしある程度信頼性のある理論にであったら、それがあっているかどうかを探るよりただただ、やってみるってのも非常に効率的ではと思う。

1日に8000字を書くようになって丁度1年が過ぎた。3,000,000字弱書いた事になる。長編小説を400字詰め原稿用紙400枚位と仮定すると約160,000字。18冊くらいの量になる。実際は改行があるので、おそらく20冊は超えるだろう。

これだけ書いていたら多少は無意識レベルで書く状態、勝手に指が動いてるって感じがあるかも知れない。そんな感じで文章が書けたらきっと楽しいだろうと思う。明日はメルマガの発行日、そろそろ準備にとりかからないと。

才能の有無はあるけれど、続けて行く事が出来たらそれなりの結果はでるのではないかと思っている。まずは継続する方法や手段を手に入れるのがいいかもしれない。