第2外国語が作り出す脳内

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例えば京都駅で。

観光客に道を聞かれて、道案内をしてきたことを待ち合わせしていた友達に開口一番話したとする。ごめんごめん、今な、京都駅で道きかれてんってはなすとする。それが東京からきたおばさんだったとする。じゃあ質問はこうしよう、金閣寺に行くには何番のバスに乗ったらいいですか、というものにしよう。

「ごめん遅れて。今な東京からきたおばはんに金閣寺行きのバス、何番かって聞かれて教えとってん、わるいわるい」

とスタバで待っていた友達にあやまる。別になんてことない会話だ。ところがこれがオーストラリアからきたオバハン2人ならちょっと面白い感じになる。

「ごめん遅れて。今なオーストラリアからきたオバハンに金閣寺行きのバス何番かって聞かれて教えとってん。いきなり外人のおばちゃんが声かけてきて、英語で、すみません、金閣寺行きのバスはナンバー何ですか?って聞いてきたから、それは9番やでって言うてん。ほんだら、それはどこから出発しますかって、聞きよるから、階段を一回降りて、あがってBのところから乗るって言うたってん。ほんだら、Bやね、ほんで、9番やねって、いいよってん。俺はそうやってゆーたららありがとうって言うていきよったわ。ごめんなおそなって」となる。実にユニークだ。

ずーーーーーーっと違和感があったんです。道案内に限らず、友達が外国人と話していた時の事を話す時、なんかへんやなと思っていたんです。ああなるほど、そういうことがあったのかと話を聞きながらも、なんかおかしいなあって思っていたんです。なんやこの気持ち悪い感じは、俺は外国人と話してきたよ、ということは、英語でしゃべってきたことになるんやで、どうや俺、英語話せるねんでというのが入っているから、ちょっと自慢げだから、違和感があるのかと思ってたんです。でも、ようやく、その謎が解けたんです。

母国語である日本語は、例えば前述の京都駅での道案内、東京のオバハンにバスの番号を教えたことは、イメージとしてその多くは画像として状況として残っているんです。だから、遅れた言い訳を言う時に、状況を説明するだけでよかったんです。イメージが頭にあるのを日本語で説明するだけですから。

ところが英語はそうではないのです。ネィティブレベルで話せるなら別ですが、ようやく英語でバスの番号を教えれる英語力では、そのシーンは言語で記憶しているんです。英語を頭のなかで日本語に訳し、伝える時はイメージを日本語にして、それを英語に訳して、道案内しているんです。

ですので、友達に遅れた言い訳をするときに、脳にはその文章の英訳和訳のやりとりしか残っていないんです。だから、状況を説明するのに、相手と自分のセリフを、一言一句言うように伝えるのです。両方の話者を登場させ、セリフを言うように説明するんです。これが強烈な違和感をよんでいたんです。

東京のオバハンに道案内した友だちが、

「ごめんごめん、ちょっと道聞かれてな。東京からきたオバハン2人が、すみません金閣寺行きのバスは何番ですかって、聞くから、おれは、9番やでって答えたら、どうやって行くのですかって聞き返すから、俺は、1回階段降りて、地下を通って向こうのBという乗り場にいくんですって言うたら、オバハンらは、どうもありがとうございました、っていいよってん。だから、おれはいいえどういたしましてってゆーてん」

ってなったら、いちいちセリフいらんから、状況だけ言えってなるでしょ。そうなんです。外国人との会話を友達が話すときに違和感があったのは、そういうことだったんです。次回是非、友達が外国の方とこんなことがあったという話を聞く時、そこに着目してください。違和感の正体がわかるはずです。