シン・ゴジラの評判がすこぶるよい。
ネットメディアで、著名な評論家が、友達がSNSでこの映画が実におもしろいと評している。おおお、おまえさん、映画を見る人だったのねというような、普段は映画のえの字も言わない友達までシン・ゴジラを絶賛している。これはよほどなんだろうなと思ったので近いうちに見に行くことにする。
こういうことなんだよなコミュニケーションも。
私は人をなかなか誘わないが、これがあるからだ。
この映画はきっと俺を楽しませてくれるだろう。だから俺は1800円を払うぜと映画を見る人は思う。それが今回みたいに面白ければいいが、そうでなければ、なんなんだよって思う。
よし、今度、あの人をお茶に誘ってみよう。その前によく考えろよ、俺は、その人にそれ相応の価値を提供できるのか。今日はあなたと会えてよかったわ、ものすごく楽しかったから、みんなにも紹介することにするわ。SNSでこんなにおもしろい人がいるから、みんな会いに行ったほうがいいよと、会った相手に言わせるほど、シン・ゴジラ級の賛辞を相手に与えることができるのだろうかと考えてしまうのだ。
俺のことを愛してくれている人ならいい。イケメンで、見てるだけで幸せってならいい。相手はあなたをみているだけで幸せなのだから、口コミは起きないかもしれないが、相手は満足するだろう。
これって考えすぎだろうか。誘われたからと会いに行って、クソもおもしくなかったらどうだろうか。2時間ほどあってスタバでお茶するだけだから、時間的にもお金的にも大した負担ではないが、それって浪費と思う私は横柄すぎるのだろうか。なにもかも費用対効果的なことを考えるのは、おかしいのだろうか。
まあ、人と会う、何かをするってことが、全て価値がともなうなんてことはないから、私が、その目にあったとしても、特にどうこういうことはないが、絶対に、こちらからはそれを提供しないようにしようとは思っている。
この人は、私といて楽しいのだろうか、この話は長くないだろうか、飽きてはいないだろうかばかり考える。もちろん結果的に、おもしろくない話ばかりしていたり、話が長かったりはするが、絶対にそういう結果はださないように努力はする。
セミナーもやったりするが、絶対に2時間全てを楽しんでもらうつもりで作る。あっという間でしたという評価が一番うれしいのだが、その声を100%もらうのはむずかしい。だが、絶対に退屈させないように、楽しんでもらうように作りこむ。
昨日は仕事の打ち合わせで東京に日帰りで行ってきた。交通費だけで往復3万円弱かかる。そこまでしていく必要があったのかとなるのだが、それは、あったのだ。
何日も前から、彼らと話をするのを楽しみにしていたし、結果的に、その会合は、大いに成果があがるもので楽しくてしかたないものだった。まあ、彼らとの話はまちがいなく楽しいものであり3万円を出してでも会いにいく値打ちがあると予想できるものだったので問題はなかったが、その尺度っておかしいのだろうか。
人に求めてはいけないと思う。人と人とのコミュニケーションをすべて費用対効果で判断するのはまちがいであると思う。
ただ、自分自身は絶対に会う相手に時間やお金を使ってもらう以上絶対に何らかの価値、楽しかったとか、役に立ったとか、幸せになったとかのを提供すべきだと思っている。
お互い何の興味もない、あっても意味がないと思っている相手と会うことって、やってもいいのだろうか。
シン・ゴジラの評価の高さをみてコミュニケーションについて思った昼下がりの午後。書いているうちに夜になってしまった。スモールジャイアンツを地で行くサッカーチームを描いたジャイキリをツタヤで借りて読むことにする。きっと答えが書いてある。