個性の時代

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個性があっていいよなあって本当だろうかという話を相方としていた。国民に個性がなくなってきている、画一的になってきている。個性的であるべきという論調があるかどうかは別にどうでもいいのだが個性的ってどうなんだろうか。

あの人は個性があって素晴らしいです、個性的でいいなあってのは確かにそうだと思う。ところがである。その個性は次第に、っぽいって形に変わる。
「あの人って、っぽいよねえ」
「うんうん、っぽいねえ」
となる。そうなってくるとその人はそういう人だとレッテルが貼られる感じになる。個性的という言葉からは何となく自由な感じを連想するのだが一転っぽいとなるとなんか不自由な感じがしてくる

画一的から得るイメージは不自由。個性的から得るイメージは自由。ところが個性を得た瞬間からそれは不自由になる。そう考えると個性がないほうがよいのではないかという気がしてくる。
「あの人ってどんな人?」
「うーん、よくわからんなあ」
のほうが何かっぽくなくていい。いやいや決してっぽいのが駄目と言ってるのではない。自由と不自由、個性、没個性という言葉の相関図を書いてみたかっただけである。上手く行かなくて申し訳ない。