おもしろい文章とそうでもない文章

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おしつけがましいか、そうではないかがキー。

わたしはこのブログを中心に、日々書きまくって、配信しまくっている。その文字数は6000文字/日にもなる。書くことが好きで仕方がないので、この文字数について負担に思ったことはないのだが、実は書く以上に好きなのが読むこと。

1日30,000字以上は読んでいると思う。活字中毒だ。この30,000字という数字は、以前だと、平均に比べて圧倒的に多いのだが、今ではそんなことはない気がする。そうスマホ以降だ。スマホ以前、電車の中で読むものといえば、新聞か書籍か雑誌だった。

スマホがない時代は、電車の中で、前述のものを手にしている人は本当に少なかった。何かを読んでいる人は少なかったのだ。ところが、今はかなり多くの人が電車の中でスマホを触っている。その内の半分ほどはゲームをしているが、それ以外の人は、何かのテキスト系のものをみたり動画をみたりしている。

感覚的にはテキスト系を読んでいる人はそんなに多くはないが、それでもスマホ以前に比べると圧倒的に文字を読んでいる人が多いということだ。

で、だ。

私も文章を日々書いていて、そして、読んでいて。以前よりも圧倒的に読む人が増えている中、いったい、どういった文章が読まれる文章で、読んでいて面白い文章なのか。わたしや、みなが、夢中で読んでしまう文章ってのはいったいどういうものなのかって、ものすごく考えるようになり、いい文章に出会うたびに、なんだこれは、なぜ、こんなにも面白いのだ、熱中してしまったのだと、感動と若干の嫉妬を覚えながら読み終え、そのあとは趣味の分析にはいる。

おもしろい文章を記事を見つけてはブックマークし、こいつのこの文章は何故こんなに面白いのかを分析してみる。また、おもしろくない文章にもチェックをいれ、そのおもしろくない様を分解してみている。

少しだけ、なんとなく、その違いのひとつに気がついたのでここに記しておくことにする。まあ、色々要素はあるのだが、その違いの最大で特徴的なものは、

漏れでている感

だ。

例えば、まあ、なんでもいいが、何かの批評文があるとする。書評でも映画評でも番組表でもいい。番組表じゃないな、番組評だな。

この本を、この映画を、この番組をみたのだが、わたしはこう感じたよってやつ。まあ、なにかについての評というのは、記事のひとつの形として、浸透しているので、目にしない日はないほど、たくさんあるので、そのサンプルに困ることはない。みなさまも日に何度も目にされておられることと思う。

この評なのだが、おもしろい評、この人の批評はおもしろいなあと思うのは、内容もやめのつけどころが面白いのは当然だが、まず、漏れている感が半端ない。漏れている感って何なのか。なにか、そう没頭している、入り込んでいる、ガッツリ体験して、経験した時に感じた、それが、もうねえ、たまらないの、聞いてって感じが出ている、出まくっている。

楽しい、読んでいて面白い文章にはこれがある。伝わるだろうか、エネルギーにあふれいているというか、まったく媚びていないというか、媚びていないのに、えらそうではないというか、そんな感がものすごくあるのだ。

一方で、おもしろくない、読んでいてなんじゃこれって思ってしまう批評は、上から感が半端ない。ああ、この映画さあ、見たんだけどさあ、まあ、面白いよ、構成もストーリーも脚本もいいねえ、よかったんじゃないってのが、どこから出てくる。

俺のおメガネに叶うぜ、この映画は、よかったらどうぞってのが出ている。こういうのを読むと、とても損をした気がする。あなたがそうやってよい評価を与えたせいで、見に行きたくなくなったよと、逆の結果さえ起こってくる。

昔会社の先輩にお笑いが好きで、おれは、面白いし色々な笑いに精通しているぜって人がいた。その人は、わたしが、ものすごく面白いことをしたときに、笑い転げるのではなく「オモロイやんけ河村」と言っていた。もちろん「みさおさん、おもしろい」といいながら、笑い転げてくれる友達もいっぱいいたので、わらいを批評するというのが悪いというのではない。

おもしろい文章と、そうでない文章の違いを書いているうちに、その先輩のことを思い出した。文章を批評するこの記事の内容が正解かどうかの判断はみなさんにおまかせするが、面白い、面白くないの基準のひとつになるのではないと思うのだが、いかがだろうか。