本質はしょせん誰かの主観

シェアする

わたしは本質を語るのが好きで、河村総研でも世の中の事象を分析し、本質を追求するという作業を日々行ない、たまに、とても素敵な本質に辿り着き、たいそう立派な理論ができたと、手を叩いて喜んでいるのだが、それってしょせん、主観だ。

まあ、意見や考えってのはいずれにせよ主観なのだから、それでいいのだが、ややもすると、導き出した理屈や理論が、世の中の本質であり、それが絶対だと思ってしまい、他を寄せつけない、受け入れないとなってしまうことがあるから、注意が必要だ。

自分が考えに考えて、徹底的に追求したのだから、それに関して大いなる自信はもってよい。わたしも、相当自信を持っている。だから、コンテンツとしてセミナーとして、世に放っている。自分の中で、100%のものしか提供しないと決めているので、MISAO LAB. からお届けする理論は絶対と思っているのだが、それと同時に、それは万人にとってではないと自覚している。この万人にとって、絶対ではないと、常に思っていないとやばい(写真はイメージです)

価値観は多様だ。自分の価値観は絶対だと押し付けてはいけない。このあたりは、少しややこしいので、もう一度書くが、

自分の導き出した、提供する理論に絶対の自信をもって、送り出すのはいいが、それは、万人にとって、絶対だとするのは駄目だということ。人にはそれぞれ、信じている価値観がある。なので、私が、そして、あなたが、提供する理論を選ぶか選ばないかの選択権は、つねに受け手にあるのだ。

おお、今回の理論は、半端ない。これは久しぶりのヒットだと、満を持して、世に放った理論が、一般的な評価が、驚くほど低いということが、よくある。そんな場合は、真摯に受け止め、改善や再分析を行なうのだが、それでも、自分の尺度で出していくしか方法はないのだ。出すことによって、それがどうなのか、はじめてわかるのだから。

ようは、なんだっていいってこと。あなたが、自分の考えを、人におしつけ、強要しないかぎり、そして、公序良俗や法律に違反しない限り、あなたが、これと思うものを、自信を持って放てばいい。あなたの、考えに影響をうけ、人生が好転したって言う人は、必ずでてくる。そういう意味において、自分の理論や思考ってのはとてもいいものといえる。

それに対する評価は、自分のと、他者のとがある。それが合致しようが、合致しまいが、関係ない。それをコントロールなどしようがないのだから。

さあ、あなたは、あなたで考えて、本質をみつけよう。あなたの、それが、何かひとつでも、人の役にたったとしたら、これほど幸せなことはないではなかろうか。