あなたのその発言は誰かにとって最高であると同時に、誰かにとって最低である。

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わたしは俳優でモデルの水原希子さんが大好きである。

であるので、

水原希子がやばい、中でもノルウエイの森の”緑”役を演じた時は、こんなに美しい人がこの世の中に存在するのだなと、大変に衝撃をうけたものである

、なぞと書く。

水原希子はこの世に存在する女性の中でも最高級の美しさを持っていると思う

、と私が書くとする。

その瞬間に、世の中には、この意見に賛成する人と、この意見に反対する人、この意見をいった私に賛同する人、この意見をいった私を嫌う人、まっったく関心がない人などが、同時多発的に存在しはじめる。

あたりまえなのだ

世の中は多様なのだから。わたしのことが好きと言ってくれる人がいてくれるから、仲間や恋人や友達ができるけど、そうでない人にとってわたしなんてどうでもいいし、お前のその感じが嫌いやねんって人は当然でてくる。
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にもかかわらず、何かを主張することによって嫌われるのを避けるため、いらないことを言わないでおこうとする人がいる。

大正解である。

何かを言うことで、確実にあなたを嫌う人が増え、敵を作ることになる。意見には賛否あるのが普通だから、この流れは当然である。であるからして、嫌われたくなければ、意見を言わないってのが、これが大正解ってことになるのだ。

まったくもって何の問題もない。

ところがだ、

もし、言いたいことがあるのに、嫌われるのがいやだから、我慢して自分の主張を通さないってことになると、これは問題だ。がまんってのは、ある程度はする必要があるが、この度がすぎると、これはあまりよろしくない。嫌われる勇気って本が、少し前におおいに売れたが、それって、嫌われるからやめておこうと言動を調整している人が多くいることをあらわしているように思える。

内容を知らないので、よくわからないが、本ってのはタイトルで売れ行きが大きく左右されるものであるから、勇気を持って、行動したいのだって人が多いと推測される。裏を返せば、そうできていない人が多いということになる。

嫌われるのに勇気もクソもない

だって、何かを言った瞬間に、その意見には必ず反対意見が存在する。

私は世の中に存在する食べ物の中で一番好きなのは餃子である

と言った瞬間に、いや、俺は焼きそばだとか、私はチーズケーキよ、しかも生のほうね、とか、餃子が世の中で一番好きなんて、信じられない。お里が知れるわね、とか、わあ、最悪や、あいつ餃子なんかすきやったんやって人の存在が確認できる。

嫌われないように、気を使いまくって、みんなに好かれようと、例えばSNSで友達全員の誰のどんな投稿にも、嫌われないように、それぞれの人に不快な思いをさせないように、1記事1いいねをつけたとする。

これで安心。だってみんなに平等にいいねつけたんだもん、差別も区別もしてないからいいよね、ってやったとしても、

何やねんあいつ。みんなにいいねしやがって、なんでもええんか。じゃあ、俺のこの渾身の投稿と、あいつが食ったナポリタンの記事とおなじいいねかよと思う人がでてくる。

ブログの記事を2000文字以上書いて、リンクして投稿しているひとには、超いいねをつけることにするね、ってしたって、だったら、このアングルを考えて、条件が揃うまで待って3日間通った末にとった渾身の写真は、ナポリタンの写真と同等かよって意見がでてくるのだ。

全員に嫌われないようにするなんて、宗教団体の教祖にしか無理である。

だとしたら、嫌われないようにしようとしたら、結局だまって生きていくしかないのだ。

もしそ黙っているのが無理なら開き直るしかない。

前述の通り、どうやったって、微に入り細に入り、最新の注意を払ったって、何かをした瞬間、誰かには嫌がられているのだから。そんなものは気にしたってしかたないのだ。

マザー・テレサやガンジーや聖母マリア様だって、すべての人から愛されたわけではないのだ。もちろん彼らは多くの人から愛され尊敬されたが、彼らは愛されよう尊敬されようなんて観念をもって行動したことなんて、おそらくだが、まったくない。

結果として、多くの人に愛され尊敬されたのだが、それはあくまでも結果なのだ。

実に皮肉だ。

好かれよう嫌われように観点を置き、そこに注力して、好かれようとした結果、多くの人に嫌われることになり、

好かれようが嫌われようがどうだっていい、そもそもそんな観念があることすら意識せず、目の前の困っているひとにただただ手を差し伸べたい、困っているから助けたいのだよという思いで行動したひとが、結果的に多くの人から好かれるということになる。

おそらく、あなたは多くの人から愛され尊敬されていますよねと、ガンジーやマザー・テレサが言われたとしても「はあ、そうなのですか」と、それに何が意味があるの?って具合でインタビュアーをみつめて答えるのではないだろうか。

あなたのことを他人が好くとか嫌うってあなたがコントロールできる問題ではないのだ。どうやったって好かれるし嫌われる。

おもしろいも、役に立つも、助かるも、全部一緒。ある人にとってはおもしろいし、役に立つし、助かるが、ある人にとっては、おもしろくない、役に立たない、助からないなのだ。

だとしたら、あなたにできることは、それをおもしろいと思う人、役に立つと思う人、助かると言ってくれる人がいると信じて、その人たちのために、私ができるなら、そして、それをそうしたいと思うなら、それをやるってことだよね。

どう思われるってのは結果でしかない。

このブログも賛否がある。どちらかと言うと否のほうが多い。ところが、とても役に立ったと言ってくれる人、おもしろかったと言ってくれる人がいる。もしわたしが、その人たちの人生や生活に、一服の清涼剤として何かを提供しているなら、それはとてもうれしいこと。

だから、否があろうが、書き続けるのである。

なんだよ、お前は、否を訴える人を無視するのかよ、人の迷惑を考えないのかよと声を荒げるのは早計だ。わたしは、あなたがた否定派のこともしっかり考えている。

だから、ブログというスタイルをとっているのだよ。

ブログはいやなら読まずにいることもできるツールだからね。あなたの目の前に行って、いきなり「なあなあ聞いて聞いて、人に嫌われるってことはね」と講釈をたれたりしないからね。

読まずにおこうと思えば読まずにいれるブログを選択しているってことは、賛否の否の人のことを俺はものすごく考えているというところだからね。みんなのことを考えているんだよ。

だから、どうか、俺のこと、嫌いにならないでね。