あなたがなにものでもなければ、そのうんちくはただの講釈なのか。

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思いとか哲学とか生き様とか、ひとそれぞれ持っていると思います。

ご多分に漏れず私も大いに持っています。生き様とか何のために生きているかなど人生についてのウンチクや哲学は人一倍強いです。なので、ついつい、それをSNSとかブログとかメルマガで書いてしまうのですが、その多くは、ほとんどの人にとってどうでもいいことです。

あんた、誰?

ってことなのです。まったく同じことをホリエモンやイチローや本田が言えば、それはもう、ありがたいすばらしい人生哲学になるのですが、俺が言っても、はあ、だからってなる。もちろん、誰が言ったなんかを超越するくらいの言葉ならそれはもう、すごいことになるけど、詠み人知らずの俳句みたいにね、でも、ほとんどの場合そうはいかない。
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残念ながら、何を言うかっていうより、誰が言うかってのに重きがおかれる。まあ、これは確率論的にいってもそうだよね。どこの馬の骨かわからない人間がいうより、しっかりと、それぞれの方面で結果を残している人間がいうほうが説得力がありますからね、しかたがない部分がある。

だったら、もう、一般の我々は、哲学とか、夢とか、思いとかを語ってはだめなのか。もちろんそんなことはないのである。当然、俺なんかが語ったウンチクは、特に俺が語るからか、講釈にしかならないから、例えばこのブログで書いても一向にアクセスは伸びず多くの人に読まれない。まあ、それは現実のものとして受けてもらうしかないわけだが、だからといって、やめてしまう手はない。どんどん書き続けよう。

これだけのことを書いているのだ、きっとどこかの誰かの心に届くこともある。もしかしたら、その人の人生を好転させる可能性だって、ないわけではないのだ。実際に、私も、僭越ながら、メルマガに返事をもらうことがある「ありがとうございます。上司から理不尽なことで叱られて落ち込んでいたのですが、河村さんの、今日のメルマガを読んで、勇気がでました」ともらうこともある。

きっとあなたの言葉を必要としている人がいるのだ。その数は、とんでもなく少ないかもしれない。でももし、あなたが、あなたの言葉で誰かを救いたいと思うなら、あなたは書き続けるべきだ。

あなたはきっと、誰かの何ものなのだから。