絵を描く。文章を書く目的は相手の脳に絵を描くことだった。

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5年のあいだ、年間300日ほど1日8000字を書いてきた。

最近はその勢いが加速し、クライアントに提出する書類も増えてきたから10000字を超える日も多くなってきた。何回も書いているが、10000字のうちそのほとんどをネット上に解き放っている。ネット情報のテキストデータはその9割が闇に葬られ、誰の目にも触れずに消えていくという。

自分の記事に関して言えば、そこまでひどくはないものの、やはり大半が読まれていないと実感する。1時間かけて書いた2000文字の記事。いいねもほとんどつかず、ページビューも3桁に及ばずってことがある。しかも結構多い。せっかく書いたのだから多くの人に読んでもらいたいと思うのは世の常だ。自分も例外ではない。なんなんだよと書く気が失せるときもある。

それでも寝て起きたら書いている。今日も朝からすでに15000文字も書いている。そして僕は考える。はたして、俺はなんのために書いているのだろうかと。

まあ伝えたい事があるからとか、書くのが好きだからということであり、考えるたびに、結局好きだから書いているんだよねと自己解決しているのだが、今日、フと違う思いが浮かんできた。浮かんできた瞬間は、ん? どういうことだと一瞬思ったのだが、しばらく考えて、そうか、そういうことだよねと腑に落ちた。

絵を描く

絵を描いていたのだ。

他の人から聞いたことないので他の人はどうなっているかわからないが、自分は、何かする時、かならず頭のなかに絵を浮かべる。昨日はこのブログで、3sの話を書いた。大昔に上司から、整理整頓しなさいよと指示を受けたときのことを記事に書いたのだが、その記事を書く時、頭のなかにはその時の絵が完全に浮かんでいた。

3年間座っていた自分の席で、右隣に座っていた上司から指示を受けていたのだが、その様子が鮮明に頭に浮かび、それを文章にしていた。ということは、文章とは、自分の頭にある絵を、一度文字にし、相手の脳に入れ、今度は相手がそれを絵に変える。そんなかんじなのではなかろうか。

もちろん、そんなことしなくても、その場面を動画にとってわたしたり、写真にしたり、すれば伝わるが、それを言葉だけですることも難しいが可能だ。

それをやっていたのかと思った。そうなってくると、闇に葬られた90%のテキストも、自分が何かを描写するためのトレーニングとわりければ、書いている事自体はまったく無駄にならない。書くことで頭が整理できて、話がうまくなるなんてことは普通にある。そうおもうと無駄はない。

もともと書くのが好きで嫌だとかは思ったことないが、9割は誰にも読まれないのかと残念になることはあった。でも、もう大丈夫。今日書いていることは、今度書くときのための練習だ、下積みだと思えば、書くのはもっと楽しくなる。

サーフィンのブログから数えるともう10年以上もおそろしい量の文章を書いているが、その積み重ねがあってここにいる、このステージにあがれたと思うと感慨深い。何かを表現するのに、何かを伝えるのに、書くを選ぶってのはひとつの選択としてありだと思う。

さあ、書こう。