友達のしんちゃんは唯識論をベースに持つ平成の哲学者だ

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仏教徒でもなく哲学を学んだこともないらしい。だから唯識論をベースに持つと言われても困るだろうしんちゃんは。

もしかしたら、しんちゃんの言ってることって仏教の教えのひとつの中核でもある唯識論ではないだろうかと思ったのだ。唯識論とは、デジタル大辞泉の解説によると以下のようにある
~以下引用~

1.世親著「唯識二十論」の略。1巻。菩提(ぼだい)流支訳・真諦(しんだい)訳・玄奘訳の三つがある。現実存在を構成する諸法は実在するのではなく、識によって顕現したものにほかならないとして、唯識を説く。「成唯識論」の典拠となった。
2.「成唯識論(じょうゆいしきろん)」の略。

~引用終了~

難しすぎてよくわからないが、要は、唯識二十論という世親が書いた本の略称で、その中に色々書いてあるが、いいたいのは、この世界は認識によってのみ存在しているということなのだ。ますますわからないよね。一人一宇宙って言葉を聞いたことはあるかな。

目の前にサーフィンに最高の波が割れている。横にサーファーでない友達が立っている。ふたりともぼーっと海を見ているが、沖からうねりとして入ってきた波を穴が空くほどみているのは絶対に俺だよね。友達がまったく気にしていない水の淀みや、うねりが入ってくる方向や、波が一番先に割れる場所はどこかと必死で俺は見ているけど、友達はまったく気にしていない。

目の前にあるのはまったく同じ世界だけど、そのどこを切り取るかで、頭のなかに浮かぶ絵は全然ちがっているのだ。結局どこまで認識しているかは人によって全然ちがうわけで、目の前に広がる世界は、その人が見ている聞いている臭っている世界で、隣の人が見ているのとはまったく違うというのが唯識論だ。

人知れず森のなかで倒れている木は、音を鳴らしていない。そこに誰かがいることで始めて音が鳴るのだというのを聞いたことがある人もいると思うが、結局そういうことを言っている。世の中にあることは認識されて始めて存在するというのだ。

いやいや、それはおかしい。東京タワーは実際に立っているし、誰ひとりみなくてもそこにはある。それはそれでまちがいないのだけど、アメリカに住む人にとってはないのも同然だみたいな意味で、あってもなくても大して意味を持たないのだ。

だから、同じ話を聞いて、同じものを見ても結局ちがう。だからひとそれぞれ好きにやればいい、そういうのをずっと言ってるのがしんちゃんなのだ。彼がすごいのは、仏教を学んで、哲学をまなんでそこにたどりついたのではなく、考えている内にそこにいき、そういえば仏教でも同じこと言ってるよなって感じなのだ。そこがすごい。

ひとそれぞれ好きなように生きればいい、だけれどもどうやってそれをするかわからない。そういう人が実は多い。だからそういう人が、自分は何が好きなのかを発見する場を提供したい。そういうことで始まったのが『しんちゃんの好きなことカフェ』だ。今回は名前をかえてリニューアル。

来月の13日の午後から大阪で開催するので興味ある人はぜひ、わたしはそれをお手伝いする人です。詳細は以下のとおりです

開催は下の要項にもとづいて実施します。限定4名です興味ある人はぜひ

【日時】2017年5月13日(土)13時から15時(受付開始は12時50分)
【場所】大阪府大阪市福島区福島5-16-20 ギャラリーK&K 203号

【料金】1,000円(税込)※当日現金でおねがいします
【定員】4名(定員になりしだい締め切ります)
【申込】以下のフォームに必要事項をご記入の上お申し込みください。題名欄に『好きなことカフェ参加希望』とおかきください

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