「毎度おおきに〜、ハワイ商事の河村です」
ハワイ商事というのは仮名である。新人セールスマン河村操が勤めていた会社の架空の名前である。セールスマン河村操はその会社に22年間勤めた。そんな会社員人生3年目の話。
先輩が担当していた、とあるお店。新しく担当することになり店舗にうかがった。先輩からいただいた引き継ぎノートに書かれてある場所に車を停める。クライントである小売店は色々な立地にある。道路に面した郊外店、商店街の中、大型ショッピングセンターなどなど。
このお店は郊外の路面店。おおきな駐車場があるので、その駐車場の北西の角に停める。郊外の路面店で、大きな駐車場があるからといって、どこにでも停めていいというものではない。駐車場はあくまでもお客さんのためのものであって、出入り業者のものではないからだ。店によってルールがあり、いくら広いといえど、業者は絶対に停めてはいけないとしているクライアントもある。なので、そういう案件に関しては引き継ぎノートに明確に記載されてある。このクライントの場合、駐車は可能だが、場所が指定されているケース。店舗入口から最も遠い、北西角ならええよということだった。
河村操は決められた場所に車を停め、店舗にはいった。店舗にはいるのにもルールがあるケースがある。店舗入口はお客様のためのもので、業者のものではない。裏の勝手口や、従業員専用入り口からはいれと指示するクライアントもいる。本来なら、それがまっとうだろう。とはいえ、そうでないケースもある。従業員入り口からはいると、そこはバックヤードにつながるケースが多く、そこを業者にみせたくないクライアントもいるのだ。そういったクライアントは、店舗からはいれと指示をだす。そのルールは多岐に及ぶので、このあたりの伝達は必須だ。入店する場所をまちがえただけで、とんでもないクレームに発展することがあたりまえのようにある。ちなみに新人セールスマン河村操は、入る場所を間違えて「業者がえらそうに、どっからはいってきとんじゃ、帰れ〜」と怒なられ、3ヶ月ほど訪問禁止になったことがある。
引き継ぎノートによるとこのクライアントは店舗入口からはいるのがルール。新人セールスマン河村操は、毎度おおきにの声とともに、店舗正面から入った。
アイドルタイム(店舗にとって比較的暇な時間帯をこう呼ぶことがある14時から17時くらいのこと)だったこともあり、店舗には客もスタッフもいなかった。入り口に設置してある赤外線のセンサーが、奥の事務所のベルを鳴らした。奥から人が「はーい、ただいま」といいながら歩いてきた。初めての店舗なので緊張して待っている河村操は、ゆっくり奥からあるいてくる80代半ばの男性の姿を見て、社長であり仕入れ責任者であることを確認した。引き継ぎノートに、しっかりとかかれてあった、
社長:80代男性
仕入れ責任者:社長
クライアントのスタッフに80代男性が、何人もいるケースは少ないので、この男性が社長であることはほぼ間違いないのであるが、万が一ということがあるので、確認しながら挨拶をした。奥からでてきたのを確認した河村操は、自らも歩き出し、店舗の中間地点で社長と遭遇した。はじめましてハワイ商事の河村ですといいながら名刺を差し出した河村操に対して社長は、誰やと声をだして名刺を受けとるために右手を出した。受け取った名刺を一瞥してもなお、社長は言った。あんた誰やと。
こういうケースは全然珍しくない。名刺を出したからといって、それで、こちらのことを理解してもらおうなんて甘い。一筋縄ではいかない経営者ってのが世には驚くほど存在している。名刺をだしたら、こちらの存在をわかってもらえると思って生きてきた新人セールスマン河村操は、この2年間で多くの洗練を受けてきたので今回のこの扱いにも驚くことはなかった。
社長が字が読めないとか、認識力がないとかの問題ではない。わかったよ、ハワイ商事の河村操ってのはわかったよ、で、何のようなの? だから何なの?って意味の、あんた誰やなのだ。そのあんた誰やにはそういう意味が含まれているのだ。新人も新人、ピカピカの新人のころの河村操にはそれがわからなかった。そう問いなおされた河村操は、えっ、河村操ですけど、名刺出してるやん、わからんのか、って思ってた。そして、あんたわからんのか、ハワイ商事の河村操ですけどって意味をこめて「お世話になっています、ハワイ商事の河村です」と言って、クライアントをおこらせていた。
「そんなことはわかってる、で、なんのようなんや」
と。
間違いなくクライアントは理解しているのだ。今回は担当変更があって、ハワイ商事の新しい担当者がきたのだと。そして、そいつは河村操であるのだというのを100%理解しているのだ。だけど、お前から説明されることなしに、こちらが、一方的に、その意味を知り、理解してあげる必要があるのだ、お前から丁寧に説明しろよという思いなのだ。
にわかには信じられないだろうが、そこには完全なる主従関係が成立していて、クライアントの言葉は絶対なのだ。
2年の経験を得て成長していた新人セールスマン河村操は、必要以上にこびへつらい答えた
「社長さんでいらっしゃいますよね、はじめましてハワイ商事の河村と申します。この度前任の高田(仮名)にかわりまして、御社を担当させていただくことになりました河村です。前任の高田からキツく言われています。俺は、どれほどお世話になったかわからない、絶対にそそうのないように、誠心誠意お手伝いさせてもらえと。とくに社長さんには、人一倍かわいがってもらったから、くれぐれも頼んだぞと言われています。ふつつかものではございますが、精一杯させていただきますので高田同様ごひいきによろしくおねがいします」
と深々と頭を下げた。これでようやく終了だ。ここまでしてはじめて、新しい担当者を受け入れてくれる
「ああ、ハワイさん担当かわったのね。はい、どうも」
と言って、踵を返した社長は、奥に戻るために歩き出した。このまま挨拶だけですますつもりがない新人セールスマン河村操は、早速商談にはいった。背中に向かって商談を開始する
「社長、いつもこの時期にお願いしているドリンクのキャンペーンがありまして。昨年はトロピカル12ケースとサマー12ケースご購入いただいているのですが、今年もそれでよろしいですか」
ほんの2分ほどはなした感じから、もう、今日はあいさつだけで済ますやろうなと感じた新人セールスマン河村操は仕掛けた。感情を揺さぶらないと商談のステージにたてないと思った新人セールスマン河村操は、リスクが最も高い怒りの感情を刺激しようと思ったのだ。例年がそうだからといって、今年もそれでいいわけなどないのだ、勝手に決めやがってと怒るに決まっている。
話をした感じから、すこし変わっているが、温和な人だと判断した河村操は、勝負にでたのだ。万が一怒ったとしても今後の取引に影響がでるようなことはない。リスクはとるべきだと。すると予想通り社長は怒った。歩き始めた足をとめ、再び踵を返して、こちらを見た
「勝手に決めんといてくれるか、去年は去年や、今年も同じってどういう塩梅や」
怒っている。よし食いついたと思った新人セールスマンみさおは、すかさず返した
「ですよね、申し訳ありません。いや、でも、やはり案内だけはしておかないと、お得なキャンペーンですから、失礼になると思いまして。ということは在庫がまだあるのですかね。次のキャンペーンが半年後なので、それまで在庫がもつようなら、次にしていただいて全然よいのですが、もし途中でなくなると、条件が高くなりますので」
と希少性をあおった、見事なまでのやらしいやり口で提案しながら、企画書を手渡した。思わず受け取ってしまった社長は、フンと鼻でわらいながら
「在庫見てくるから、ちょっとまっとけ」
と言い残し、奥の倉庫に消えていった。よし、まあ在庫があったらしかたないけど、最低限の提案はできたと胸をなでおろした新人セールスは社長がもどってくるのを、店内を色々散策しながら待っていた。5分ほどたって社長がもどってきた。手渡した企画書を、無造作に返すように河村操の前にだしながら
「トロピカルだけ12ケース送っといてくれ。3ケースつくんだよな。サンプルはサマーのほうで」
言った。
「ありがとうございます社長、さっそくご注文いただけるなんて、ほんとうれしいです、ありがとうございます」
と河村操は頭をさげた。まあ、商品もなかったし、こいつも喜んでいるしといった表情で、社長は、ふたたび奥に向かって歩き出した。午前中に商品が届くようにしといてくれという指示を残して。
河村操はその約束をメモに書き留め、ありがとうございますと今一度頭をさげた。担当した初日から注文がいただけるなんて、ラッキーだと喜んで、店をあとにした河村は、気分をよくして、次のクライアントに向かって車を走らせた。4日後にとんでもない悲劇が彼を襲うことになることを知らずに。
(つづく)