コミュニケーション能力が高いとか低いとか、大事とか大事でないとか言っているが、しょせんそれは主観でしかない。

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申し訳ないがとあやまる必要もないが、いちおう建前的にあやまりながら言うが、私は私自身、非常にコミュニケーション能力が高いと思っている。

なので、高いお金をいただいて、販売員やセールスマンやプログラマーなどのビジネスマンにコミュニケーションを教えている。

私のコミュニケーション能力の高さを買ってくれて、コンサルティング契約を結んでくれたり、コミュニケーション能力が低い人達に、コミュニケーションを教えてくれと依頼をくださったりする。
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プロとしての私の能力を高く評価して下さる人がいるので、それで飯を食っている。まあ、22年間もセールスをやってきて日々、クライアントの顔色を見ながら、半年分在庫があるところに1年分を、門前払いを食らった状態から、商談にこぎつけ、売ってくるのだから、まあ、かなり高いと言っていいだろう。

こう書くと、口八丁手八丁の、セールストークが得意なのではと思われるかも知れないが、もちろん、それもあるが、実は、そんな部分は全然ウエイトが高くなく、それ以前の、関係構築する部分、すなわち、入念なコミュニケーションをとるところが重要なのだ。

それを20年以上やってきたわたし、まあ、そんなに悪くないはずである。実際にそれで、お金をもらっているし。

ところがだ、そんな私のコミュニケーション能力がクソだとする人もいる。空気をまったく読めずに発言し、場の雰囲気を壊しているという評価をする人がいるのだ。なんやねんなと、そう言われてショックは受けるのだが、こういうことは、普通にある。

結局、定義付けがあいまいなのだ、コミュニケーション能力が高いって、はっきりと、どうなのかということがないから、それぞれ主観で、高いのか低いのかを判断するからだろう。

こうなってくると、いくら私が凄いと言ったって、それはどうしようもないことになってくる。見ているところが違うからだ。

かんちがいしていたできたいのは、それに対して、私が文句を言っているのではないということだ。

世の中ってこんなもんだっていいたいのだ。一般的に不細工と評される私の容姿を、イケメンだと心の底から言ってくれる人もいるのだ。そう、蓼食う虫も好き好きなのだ。

これが、世の中の事象の多くに適用される理論だと思っている。

私はこれが最高だとおもっているものに対して、最低と評価をつけるひとが、必ずいるのだ。

だとしたらだ。結局、自分がいいと思うものを信じてやるしかないのだ。わたしは、わたしのコミュニケーション能力は相当高いと思っている。しかも、これを丁寧に教える能力を持っていると思っている。だから、わたしはそのサービスを広く深く販売しているのだ。

それがどんなものかというのは、5年近くにわたりメールマガジンを書いているのでそちらを参考にしていただきたい。それを読んで、違うと思ったら、違うし、こいつすげーと思ったらそうなのだ。

世の中のことはそれだけでしかない。

だったら、自分がいいと思うものを信じ、やっていくしかないのだ。もちろん、色々な人からの意見は聞き、つねにブラッシュアップしていく必要はある。

そして、つねに改善し、自分がやりたいようにやっていけばいいのだ。さいわいなことに、このネット社会はそういう生き方に、とても便利にできている。

例えば、このブログという媒体。私は、私のいきかたはこうで、これがいいと思っているんだというのを毎日発信している。それは、オープンにされているので、誰でも、いつでも読むことができる。

だから読みたい人に読んでもらえる。

一方で、読みたくない人は、読まなくていいということになっている。たまたま、目に飛び込んできて、少しのあいだ文章を読まされることになったとしても、なんじゃこいつとなったら、すぐにブラウザを閉じればいいのだ。読む必要はまったくない。

だから、自分がいいと思うことをやっていくことができるのだ。

あなたの考えや思考や意見は、たいがい正しいし、ほとんど間違っている。でも、安心してください、それはそれを欲しがっている人にしか届かないから。すきなように生きていけばいいのだ。