カラスは鳥の種類のひとつであると知る大切さ

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「お母さんあれ何?」

と可愛い娘がマンションの6階のベランダから見えるほど近い上空を飛ぶカラスを見て言ったとする。するとお母さんは「あれはカラスだよ」と答える。娘はその物体をカラスと認識する。娘がカラスのどの部分を記憶しそれをカラスと概念づけたかお母さんにはこの時点ではわからない。そのあと何匹か飛んできたカラスを見て娘はカラスだ、カラスだと楽しそうに言う。

翌日も娘はお気に入りのベランダに行く。すると目の前に鳩が飛んできた。娘はそれを指差して「おかあさん、カラス」と言う。娘はおそらく空中を飛ぶ体がある程度太くて羽が生えているもの、つまり鳥という種にカラスという名前を間違ってつけてしまった。だから鳩を見てカラスと言ったのだと推測できる。トンボが目の前をとんでもカラスと言わないだろうし、もしある程度の大きさのものをカラスとしたなら、スズメが飛んでいてもカラスと言わないかも知れない。

おかあさんは、ここで修正を加える「ああ、あれはカラスじゃなくて鳩だよ」と。娘は「ハト?」と記憶の書き換えもしくは知識の整理をしようとするかもしれない。何歳かにもよるがそんな難しいことはしないかもしれない。頭がよいこなら、なるほど同じような感じでも黒いのがカラスでグレーなのがハトと定義付けしたかもしれない。その天才の前にトンビが飛んできた。天才はきっと「おかあさん、じゃああれは何?」と聞くかも知れない。

グレーでも黒でもないが、カラスやハトのような感じで同じような動きで飛んでいる。でも大きさと色が違うから、これは大きいお兄ちゃんと小さいお兄ちゃんが違うのと同じで、彼ら3つは違うと判断したかもしれない。ここで母は試みる「あれはねえ、トンビだよ。カラスとかハトとかと同じ種類で、鳥っていいうのよ」生き物には種と個があって、その概念があるってのを一応伝えようと試みたおかあさん。まだ難しいかなと思いつつ、言っておいた感じだ。

どうやら人間はこうして知識や概念をドンドン積み重ねていき成長していくらしい。大人のほとんどは、カラスもハトもトンビも鳥という種類だと知っているし、違いは一瞬でわかる。でも子供の時は絶対にわからなかったはずだ。え〜っとあれは黒くてくちばしがとんがっているからカラスで、ねずみいろでポーと泣いていて丸いからハト、あまり羽ばたかず、旋回するように飛んでるからトンビとひとつづつ当てはめながら判断していたはずだ。

どうやらそれを分析とよび、人間が成長する賢くなるのはこの分析を繰り返すことによるのだと誰かに紹介してもらって読み始めたE・B・ド・コンディヤックがその著書『論理学』の中で言っている。分析だけしてればいいのだと。それが考えるということであるとも断言している。考えるのが苦手だとか、その方法がわからないなんてことは決してないんだ、もうあなたは充分考えているし考えてきただろうと言っている。だって、カラスとハトの違いが一瞬でつくでしょう。スズメとトンビはぜんぜん違うってわかるでしょう、あなたは考えているし、その方法を知ってるよと言ってるのだ。

最近私は猛禽類ウォッチングにハマっている。上空高く飛びあまり羽ばたかない少し大きめの茶色い鳥は全部トンビだと思っていた私は、おそらく何十回もトンビでない猛禽類を浅はかな知識でトンビと判断してきただろう。草津駅周辺の上空に飛んでいるトンビのような鳥はほぼトンビで間違いないが、琵琶湖沿いの湖岸道路の上空を飛んでいるトンビのような鳥はトンビでない可能性は大いにある。ところが知識が浅かった私はずっとそれがトンビだと思い込んでいた。

猛禽類に興味を持ち出すとそれがトンビでない可能性があることがわかる。すると今度はそれがトンビでないのではと目をこらすようになる。分析が始まるのだ。新しく得る知識は今まで知っている知識と比較することでしか身につかないと前述の本には書いてある。確かにそうで、それがトンビでないかどうかってのは、トンビの特徴をよく知らないと判断はつかない。

今までの情報量では絶対にわからないのだ。ちなみにトンビによく似た猛禽類でミサゴというのがいる。これを今までの私はトンビとしていた。適当な知識だったからだ。ところがトンビを再分析したことにより増えた知識でミサゴとの違いを知った。ミサゴは羽を下からみると白い部分が多いしその形が特徴的なので慣れると見分けがつく。まだまだ目を凝らさないと違いがわからないが、もっと猛禽類を見てきた先輩はおそらくカラスとハトの違いがわかるほど全然違うというだろう。

日本人の我々は欲しいのwantとwill notの短縮形won’tの違いがわかりづらいが、ネィティブはそれが同じように聞こえるなんて信じられないほど2つの音は全然違うと言う。車好きの人は車種やメーカーの違いはものすごくわかるだろうが、興味のない女の人にとったら皆同じに見えるのと同じだろう。

そんなことがこの本には書いてあるようだが、まだ入り口を読んだだけなのでこの程度しかかけないが、読み進めると相当面白いのではと予感されるので、また書くことにする。いずれにせよ、人間は分析と統合を繰り返しながら成長していくようだ。よく考えたらおれは生まれてこのかた分析ばかりしてきたなあということで独立した時に河村総合研究所という屋号をつけたシンクタンクを作ったのだが、あながち間違ってなかったどころか、いやいやそれが考える唯一だと、少なくともE・B・ド・コンディヤックさんは言ってることが大いに嬉しく書いた。

『人は知っていることから知らないことへ進むことによってのみ学ぶことができる』

と書いてある。トンビのことを詳しく知り、あれはミサゴだと判断するとか、前足に乗りすぎたことにより、後ろ足にのることを知るっていうのは、成長のための学ぶための最高の方法であるということがとりあえず確認できたことが本日の最大の成果である。

分析ばかりしていて、観察ばかりしていて、俺って大丈夫かと心配している諸君、この本はあなたのバイブルになるぞ。よろしければ是非。