思考クラブ

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メンバーは私と思考オタクの友人。

2人は思い切り考えて話をする。その時間はときに5時間を超える。ギリシャの哲人たちをも凌駕する域だ。思考のレベルというわけではない、時間ね。

哲学と言うのはものの本質を追究する学問。難しい話、何か話をしろというものでは決してない。深く考え本質を追究すると言うのがやはり難しいのでそれが、ときに難解に映るのである。でも要は考えているだけ。ひたすら考えればいいのだ。

ただ考え過ぎも良くない。ものの本質なんてわからない、そんなこと無駄と言っている哲学者もいる。彼は考えることを放棄したのか。もしそうだったとしても考えて導いた結果だというのはまちがいない。「さあ、みんなで考えよ~」である。

深く考えて結果を出すメリットをひとつ。ある事項に対して徹底的に考える。そしてそれを発表する。あるテーマが出ていてその期限が決まっている場合、考え過ぎてはまることはすくない。けつが決まっているからだ。大いに考えてほしい。

そしてその出た結果を皆の前で発表する。これは凄いと発表する。ここまで考えたのだから、完璧ではないにしても自信を持っている。どう凄いやろと言う感じでやる。

ところがそれが、一瞬で覆る指摘をいただいたりする。あれだけ考えて出した答え。自分では自信満々の答えであるはずなのにその一言で一瞬でくつがえる。しかも、そっちのほうがよさそう。なんでなのと凹む事もある。

あれだけ考えたのに、聞いている人は今聞いて瞬間的に考えただけなのになんで、と思ってしまうがそれは、なんてことのない要因がある。

リソースだ。あなたの持っているその事に対して考える原資がないだけだ。凄い原資だとかそうでないとか優劣の話ではなく、たまたまあなたが持っていないものを持っていたのだ。それだけ。あなたの考えを聞いていた彼が分析するためにそのリソースを使ってみた。

するとすぐに結果がでた。そのリソースはとても凄いものでもなかったのだが、あなたが思考するときには使わないものだ。あなたの右横に落ちていたのだが、それはあなたの枠外だったので気付かなかったのだ。これはおそらくあと1週間よけいに考えてもつかわなかったリソース。

そういう事が起こる。それだったら考えずに人に色々聞いたほうが視野が広まりそうだが、物事はそう単純ではない。あなたは充分に自分の出来る範囲で考えて確固たる軸ができた。それがあったから、あらたに投げられたリソースがあなたの外にあったことが分かったのだ。これは実は非常に大きい。

考える前にもらっていても、そのリソースがあなたのなかにあったものかどうかわからないからだ。

それだけ考えたものが一瞬で崩れるのはショックだ。それを嫌う人もいる。私はむしろ大歓迎。今回のは凄いで、おそらく穴は一切ない。あらゆる場面を想定して、考えに考えた。どうだ。と行く。でもたいがい、スコーンと一瞬でひっくり返される。それは辛いけど驚きの瞬間だ。この世界はいったいどれほどの広がりをもっているのだと。

つっこまれるのを選ぶのか、それを避けるのを選ぶのか。わたしは断然突っ込まれるほうを選ぶ。年を重ねるごとに深まる知識。だからこそ狭ばる思考。

突っ込まれたほうが断然とくである。